第一章 三光院の開山
三光院は、昭和9(1934)年、西野奈良江氏によって開かれました。 西野奈良江氏は、中学生向 け教科書を主業とした出版社・東京開成館の女性経営者です。近代日本において、女性が経営 者として活動すること自体が容易ではなかった時代、彼女は教育事業に携わり、とりわけ婦女子 教育に深い関心と志を持っていました。 女性が和文化を含めた教養を身につけ、祈りとともに日 本文化を学び、受け継ぐことのできる場をつくりたい。三光院は、単なる寺院建立ではなく、女性 の教育、文化継承、祈りの場として構想されたものでした。
西野奈良江氏は山岡鉄舟を深く敬慕しており、東京都小金井市にあった山岡鉄舟の子孫の方々 が所有していた土地を購入します。開山当時の三光院は、七千坪を超える広大な敷地を有して いました。 彼女が望んでいたのは、大きく威圧的な伽藍ではなく、女性たちが祈り、学び、文化を 育むにふさわしい、静かで品格ある尼寺らしい庵です。
しかし、建立の過程では思わぬ行き違いが生じます。建築の差配は、山岡鉄舟ゆかりの寺院とし て知られる全生庵に依頼されていました。西野奈良江氏は現役の経営者として多忙であり、また 完成の報せを待って現地を訪れるつもりでもありました。ところが、資金を出しても出しても完成 の報せは届きません。やがてしびれを切らして現地を訪れたところ、そこには当初の想定を超え る大きな本堂が建立されていたのです。
さらに彼女を驚かせたのは、山本玄峰老師が三光院に半ば居住するような状況となっていたこと でした。西野奈良江氏にとって、三光院はあくまで尼寺として構想された場所。にもかかわらず、 大きな本堂が建ち、男僧の老師が出入りする状況は、当初の願いとは大きく異なるものでした。
この状況に対して、西野奈良江氏は差配を依頼した全生庵へ苦情を述べます。しかし、相手方 からは「こんな立派な老師に隠居寺として使ってもらえることになったのだから、有難いこと。誇り に思いなさい」と諭される始末でした。尼寺の庵を望んでいた西野奈良江氏にとって、それは到 底納得できるものではありません。
三光院は、あくまでも尼寺として建立されるべきお寺でした。 この強い願いが、後に曇華院との 御縁へとつながっていきます。
第二章 曇華院との御縁
困り果てた西野奈良江氏が頼ったのが、浜松にある臨済宗方広寺派大本山・方広寺の間宮英 宗老師でした。 西野奈良江氏は、間宮英宗老師に対し「小金井に建立したお寺には、立派な尼 住職を迎えたいのです」と訴えます。三光院を尼寺として確立したいという強い願いでした。 この 願いを受けて間宮英宗老師が仲介の労を取ったことにより、三光院は京都嵯峨野の尼門跡寺院 (旧比丘尼御所)である曇華院との御縁を得ることになります。
曇華院は、旧比丘尼御所の流れを汲む尼門跡寺院です。比丘尼御所とは、皇女や公家出身の 女性が住持を務め、祈り、行事、茶、香、和歌、料理などを一体として伝えてきた特別な尼寺の文 化を有する寺院。そこでは、仏教寺院でありながら、神仏、皇室、和文化、年中行事、暮らしの作 法が重なり合い、一般的な檀家寺とは異なる独自の精神文化が育まれていました。
西野奈良江氏は、曇華院の尼門跡であった飛鳥井慈孝御前様に、三光院の住職となっていただ きたいと懇願します。しかし、当時の価値観において、京都の尼門跡が東京の寺院に移ることは
容易ではありませんでした。京都から東京へ移ることは「東に下る」と受け止められ、周囲も決し て許さない状況だったのです。
そこで、周囲の反対を収めるため、三光院を飛鳥井慈孝御前様の「御別院」と位置付けることに なりました。飛鳥井慈孝御前様自身は三光院の後見的な権威となり、三光院の初代住職には、 次期尼門跡候補の筆頭であった米田祖栄和尚様が就くこととなりました。
この経緯によって、三光院は昭和に開かれた新しい寺院でありながら、曇華院に連なる比丘尼 御所文化を受け継ぐ尼寺として歩み始めます。 三光院の本質は、この時点で定まりました。 そ れは、単に小金井に新しく建てられた一寺院ではなく、曇華院の御別院的性格を持ち、尼門跡文 化を関東の地に伝える尼寺としての性格でした。
第三章 米田祖栄和尚様と尼寺としての確立
三光院の初代住職となった米田祖栄和尚様は、幼少期から尼門跡寺院の世界に生きた方です。 米田祖栄和尚様は五歳で霊鑑寺に入寺し、八歳からは曇華院へ移りました。まさに生粋の尼門 跡寺院育ちであり、祈り、行事、作法、茶、料理、もてなしのすべてを、尼門跡寺院の暮らしの中 で身につけていました。
三光院における行事、しきたり、作法、料理、もてなしは、米田祖栄和尚様を通じて曇華院から 伝えられたものです。三光院が国泰寺派との制度上の関係を持つことになった後も、実際に三光 院で受け継がれていた文化は、曇華院の比丘尼御所に由来するものでした。
開山当初の三光院には、山本玄峰老師の滞在という問題が残っていましたが、老師は複数の寺 院を管理する立場にあり、三光院はあくまでも隠居寺的な扱いでした。老師にとって、三光院が どうしても必要な場所だったわけではありません。 米田祖栄和尚様は、山本玄峰老師が三光院 に滞在している間は場所を移して過ごされていましたが、その状況も間もなく整理され、昭和11( 1936)年には、三光院は完全に米田祖栄和尚様の管理する尼寺としての体制を確立します。 こ こに、三光院は名実ともに尼寺としての歩みを始めたのです。
三光院の原点には、西野奈良江氏の婦女子教育への志、飛鳥井慈孝御前様による格式の後 見、そして米田祖栄和尚様による比丘尼御所文化の祈りと暮らしの実態があります。 この三つ の事実が、三光院の歴史を形作っています。
第四章 宗教団体法・宗教法人法と制度上の所属
三光院の歴史において、制度上の所属と実際の文化継承を分けて理解することは不可欠です。 三光院が開山した昭和9年当時、現在のような宗教法人法は存在していませんでした。寺院に法 人格があるわけではなく、西野奈良江氏からの寄贈地、あるいは私邸的な性格を持つ寺院とし ても通用する時代だったのです。
しかし、昭和15年(1940)に宗教団体法が施行され、戦後の昭和26年(1951)に宗教法人法へと 移り変わるなかで、寺院にも規則や届出が求められるようになります。三光院もまた、法人として の体制を整える必要に迫られました。 この法人化の動きのなかで、三光院の初代代表には米田 祖栄和尚様が就任され、その後、曇華院の飛鳥井慈孝尼門跡も役員に名を連ねることとなりま す。これにより、臨済宗単立寺院である曇華院と三光院は、役員の顔ぶれが全く一緒になりまし た。代表者こそ異なるものの、実質的には曇華院との一体的な関係がこの体制によって保たれ ていたのです。
一方で、三光院は寺院規則を整える過程において、開山初期に建築の差配を依頼した全生庵か らの強い要望もあり、全生庵と同じく国泰寺と包括関係を結び、宗派としては国泰寺派に属する 形となります。 当時は、実際の寺院運営には支障がないとの判断がありました。体制も伝統も気 風も従来通りであるなら、制度上の所属に過度にこだわる必要はないという、当時の実利的な判 断です。 しかし、この制度上の判断が、後年まで三光院に複雑な影響を残すことになります。
ここで見落としてはならないのは、三光院が国泰寺派との包括関係を持ったことと、三光院の実 際の文化的・精神的継承が曇華院・比丘尼御所由来であったことは、全く別の問題であるという 点です。
米田祖栄和尚様は、生涯、国泰寺に登山されることはありませんでした。遷化された際には国泰 寺からも戒名が送られましたが、眠っているのは曇華院であり、墓石に刻まれている戒名も曇華 院からいただいたものです。 これは後の星野香栄御住職においても同様でした。国泰寺への登 山経験こそあったものの、長年にわたり国泰寺へ足を運ぶことはありませんでした。三光院が実 際に受け継いできた行事、しきたり、作法、料理、寺風のすべては、曇華院をはじめとする比丘 尼御所、尼門跡寺院由来のものです。 この制度上の所属と実際の文化継承のずれは、三光院 の歴史を理解するうえで避けて通れない事実です。
第五章 戦中・戦後の三光院と御開基西野奈良江氏
米田祖栄和尚様が三光院の初代住職となられた翌年には、日中戦争が始まります。昭和12年(1937)以降、西野奈良江氏も戦時疎開として三光院へ居を移されました。
西野奈良江氏は公式な役員には就きませんでしたが、現役の経営者、そして開基・重要な支援 者として、法人運営や寺院規則の整備を実質的に取りまとめる立場にありました。 しかし、戦後 になると、三光院を取り巻く環境は大きく変化します。
昭和22年(1947)、華族制度が廃止されました。これは、尼門跡寺院にとって大きな転換点となり ます。 曇華院をはじめとする比丘尼御所の寺院は、檀家制度によって維持されてきた寺院では ありません。長い年月、皇室、公家、貴族階級、権力者、支援者からの寄進や庇護によって支え られてきた寺院です。そこでは、葬儀、戒名、檀家を中心にした一般寺院とは異なる運営形態が 取られていました。
華族制度の廃止は、その支援基盤を根底から揺るがしました。特権を失い旧華族となった支援 者たちが激変していく中で、多くの尼門跡寺院は厳しい運営状況に置かれることになったので す。
昭和22年当時、京都御所の所長であった飛鳥井雅信伯爵は、飛鳥井慈孝尼門跡の実弟にあた る人物でした。雅信氏は、関西圏の尼門跡たちを京都御所に集め、今後は華族制度が無くなる ため、これまでのような支援はできないと告げたと伝えられています。 これは、尼門跡寺院にとっ て非常に重い宣告でありました。 三光院もまた、この時代の変化から無縁ではありませんでし た。檀家を持たず、比丘尼御所文化を背景とする寺院として、今後どのように寺を維持していくの かが大きな課題となったのです。
第六章 檀家寺にならないという選択
戦後の厳しい状況の中で、三光院には一般的な寺院運営へと転じる道もありました。 檀家を 募って葬儀を引き受け、戒名を授ける。あるいは、賽銭箱を設置し、寄付を募り、お守りや御朱印 を授与する。そのような道を選べば、経営が安定した可能性はあります。
しかし、三光院はその道を選びませんでした。 比丘尼御所文化を受け継ぐ尼寺としての気風を 守るため、祈り、行事、茶、香、和歌、料理、作務を中心に据え、その文化を現実の暮らしの中で 継承する寺であり続けようとしたのです。
この姿勢を表す言葉として、次の趣旨が残されています。 「御所風の門流を閉じて尼門跡の系譜を捨て、葬斎の巷に降りるは美しとせず」
これは葬儀や戒名を否定するという意味ではありません。三光院が本来受け継いできたものは、 檀家制度ではなく比丘尼御所の祈りと文化であるという自覚を示すものです。神様、仏様、皇室 を等しくお祀りし、年中行事と祈りの日々を中心に置くことは、単なる経営判断ではなく、寺の本 質を守るための決断でした。
ただし、寺院運営には資金が必要なのも事実です。戦後の困難の中で、三光院もまた一部の土 地の売却がされました。
これが具体的にどのような影響を与えたのかは今となっては不明なのですが、飛鳥井慈孝御前 様は、三光院の山門の潜り戸と井戸の封印を命じられました。この命は今も頑なに守られていま す。風の侵入と水の流れを閉じることで、門流にまで変化が起こらないようにとされたのだと思わ れます。
第七章 文化人サロンとしての三光院
昭和20年代から30年代にかけて、三光院には多くの著名人が出入りする、一種の文化人サロン のようになっていきました。
本来、三光院は檀家を持たない尼寺であり、一般に開放された観光寺院でもありません。しか し、米田祖栄和尚様の人柄、そして尼門跡寺院由来のもてなし、茶、香、料理の文化に惹かれ、 文人、政治家、文化人たちが自然と集う場となっていったのです。
西井香春先生の御意向により、具体名の多くは差し控えますが、境内の山岡鉄舟碑に揮毫され た頭山満との縁を背景に、三島由紀夫などの文人や政治家が多く出入りされていました。ちなみ に、三島由紀夫にお仲間として奈良の円照寺を紹介したのも、米田祖栄和尚様でした。三光院 におけるこれらの交流は、単なる華やかな社交ではなく、祈りと文化が根底にある静かな場とし て機能していました。
三光院がこのように文化人サロンとして機能し始めた最大の理由は、やはり料理にあります。 米 田祖栄和尚様は、来院者に対して、曇華院で習い覚えたお茶や料理を振る舞い、温かくもてなし ていました。それは御所流の饗応であり、食事が伴わない場合であっても、必ずお茶によるもて なしがされました。表千家流の薄茶、売茶竹延流の煎茶に香道を加え、さらに時には竹之御所 流精進料理まで付け加えられたのです。当時の関西と関東の距離感を踏まえれば、東京にいな がらにしてこれらを体験できることは、物凄く貴重なことでした。
この特別な体験を、シャンソン歌手であり随筆家でもあった石井好子氏が「京都になんか行かな くたって、三光院に行けば東京でも十分以上に京都を味わえる」とエッセイで発表します。これが 大きな転機となり、三光院には食事を目当てとする来院者が増えていくことになりました。
しかし、この段階になっても三光院はまだ、現在のように一般に広く開かれていたわけではありま せんでした。あくまで紹介や同伴を通した文人サロンとしての性格を維持しており、定価を定めて 客を受け入れるという形式ではありませんでした。御香資や御浄財の額に決まりはなく、すべて は訪れる側の教養や粋に任せる形をとっていたのです。
それは極めて雅な世界ではありましたが、同時にお寺の財政を安定して支える柱にはなり得ま せんでした。
この課題に向き合い、三光院の御所流精進料理を一般に開いていくことになるのが、後の星野 香栄御住職でした。
第八章 星野喜久子少女と三光院との出会い
後に三光院の二代目住職となる星野香栄御住職は、少女時代を星野喜久子といいました。
星野喜久子少女が比丘尼御所文化に触れるきっかけとなったのは、女学校の修学旅行で訪れ た光照院門跡でした。その尼門跡寺院の世界観に深く惹かれた喜久子少女は、旅行が終わって からも光照院門跡に熱心に通うようになります。
その光照院門跡で常盤未生流の花道を学ぶうちに、喜久子少女に三光院との御縁が生まれるこ とになりました。 「あなたの学校の近くにも、尼門跡寺院の世界を知る本物の尼様がいらっしゃい ますよ」 そう紹介されたのが、三光院の米田祖栄和尚様だったのです。
「熊がやってきた!」
米田祖栄和尚様が、星野喜久子少女を初めて目にした時の率直な感想です。檀家を持たない尼 寺ですから、よほどの紹介がない限り、少女が一人で訪ねてくるようなことはまずありません。加 えて体格の大きな少女であったため、すっかりびっくりしてしまった米田祖栄和尚様は、障子の陰 から覗くばかりで、なかなか表に出てこられなかったと伝わっています。
この初々しい出会いが、三光院の将来を大きく変える運命の始まりとなりました。
喜久子少女は、その後、三光院に頻繁に通うようになりました。彼女にとって三光院は、単なる寺 院ではなく、尼門跡寺院に連なる文化を体感できるかけがえのない場であり、飛鳥井慈孝御前 様、米田祖栄和尚様の寺そのものでした。
やがて喜久子少女が進学先として選んだのは、大正大学でした。仏教系の大学ではあります が、禅宗の大学でさえありません。彼女はそこで中村素堂教授に師事し、書道家を目指したので す。しかし、その学びもまた、すべては三光院のためでありました。
三光院を支え、三光院を背負う。 その強い意識と覚悟が、若き星野喜久子の中に静かに、しかし深く育っていきました。
第九章 皇居・女官・尼門跡の交流
戦後、女官制度は廃止されました。しかし、生涯未婚で皇居に勤めることを習わしとしていた女官 たちの一部は、公務員として身分が変わった後も、皇居内に居住スペースを持っていました。
米田祖栄和尚様は、小金井の椎茸や栗を携えて、たびたび皇居を訪れていました。女官たちの 話し相手としての交流が、その後も続いていたのです。
星野喜久子少女は、米田祖栄和尚様のお供として皇居内の女官部屋を訪れることがありまし た。時には、喜久子少女だけがそのまま女官部屋に宿泊し、翌朝、皇居から大学へ通うことも あったといいます。
こうした雅な交流は、三光院においては特別なことではなく、日常の自然な流れの中にありまし た。皇室、女官、尼門跡、和文化、そして祈りにつながる世界が、そこには確かに息づいていた のです。
また、関西圏を活動拠点とする尼門跡寺院の関係者たちにとっても、三光院は上京時の重要な 拠点となっていました。東京の紀尾井町(後にホテルニューオータニが建てられた地)にゆかりを 持つ伏見誓寛尼門跡も、上京の折には三光院を宿泊場所としていたのです。
こうした交流を通じて、三光院は関東にありながら、関西の尼門跡寺院の文化と密接につながる 場となっていました。
この時代から米田祖栄和尚様を通して築かれた広い交流が、後に星野香栄御住職が、各尼門 跡寺院の作品や作品展、記録、そして文化復興に力を注ぐことになる大きなきっかけとなったの です。
第十章 室谷秀中将夫人との出会い
若き星野喜久子は、書家として身を立てようと考えていました。二十二歳の頃には銀座で書の個 展も開催しましたが、大学で中村素堂教授に師事していたとはいえ、世に知られた存在ではあり ません。唯一の武器は、小金井市長から頂いた名刺一枚のみ。しかし、それも何の役にも立ちま せんでした。個展会場で待っていても作品が売れることはなく、自ら売り歩きもしましたが、結果 は同じ。誰も買ってはくれませんでした。
そのような中で出会ったのが、室谷秀中将夫人でした。 「貴女の書の作品は買わないけれど、貴女のことは買ってあげるわよ」
これは、室谷秀中将夫人が星野喜久子にかけた言葉です。書を売り歩く理由が三光院の運営を 支えるためであると知った夫人は、経営を学ばせようと喜久子を秘書として迎え入れたのです。 「一條のママ」として永田町で料亭を経営していた夫人は、そこで喜久子に社会の仕組み、人脈 の作り方、そして経営の感覚を叩き込みました。
この出会いは、三光院にとって大きな意味を持ちました。五歳から尼門跡寺院で育った米田祖栄 和尚様には、自ら稼ぐという感覚は乏しく、御所流精進料理もあくまで日常の延長に過ぎなかっ たからです。一方、喜久子は、三光院を維持するためには社会と関わり、人を集め、資金を生み 出す仕組みが必要であることを痛感していきました。
夫人は、娘以上に年下の星野香栄御住職に対して「生涯の友へ」と認めた手紙を頻繁に送るよう な間柄となり、その関係は生涯にわたって続きました。実現こそしませんでしたが、一條を閉める にあたって、その建物を三光院に移築する計画もあったと伝えられています。
三光院の竹之御所流精進料理の魅力を世に分かち、閉ざされた門を越え、広く人々に慈しまれ る存在となることで、結果として守り伝えていくための糧とする。その喜久子の強い想いに対し て、室谷秀中将夫人が実現化への導き手になってくれたのです。
第十一章 三光院幼稚園
昭和33(1958)年、北多摩郡小金井町が小金井市へと移行しました。その後、人口増加を見越し た初代鈴木誠一市長より三光院へ幼稚園開園の要望が寄せられました。これを受けて昭和37( 1962)年、三光院幼稚園は開園し、市制施行後初となる幼稚園として歩み始めました。開園にあ たっては、京都の曇華院より保育経験者を迎え、星野香栄となる前の星野喜久子が初代園長と してその任に就きました。
「子どもには最高の体験教育を」という理念のもと、同園の教育環境は贅沢を極めました。NHK 交響楽団との共演、ペイントバスでの送迎、箱根や江ノ島への遠足、藤井凡大作曲の園歌、そし て一人ひとり異なる装丁の卒園アルバムなど、当時の水準を遥かに超えた独自の試みがなされ ました。
「給食がとにかく美味しかった」「使い方も分からない顕微鏡をプレゼントしてもらった」という当時 の思い出を片手に、現在も三光院に通われる方がいるほどです。幼稚園の卒園生が半世紀を超 えてつながっており、作務として剪定を手伝い、家族とコンサートを聴きに来て、同級生と食事を 楽しみにくる。現在も比丘尼御所由来の文化を大切に守り、食事やイベントを通じて豊かな場を 提供し続けている三光院だからこそ、こうした絆が育まれているのでしょう。
しかし、その肝心の幼稚園は開園からきっちり十年で閉園となりました。経営という面では、あま りにも贅沢すぎた結果でした。それでも、子どもたちに最高の文化体験を惜しみなく与えようとし た三光院の足跡は、今なお歴史の中に深く刻まれています。
第十二章 御所流精進料理の一般公開
三光院の御所流精進料理は、米田祖栄和尚様によって曇華院から伝えられたものです。 しか し、米田祖栄和尚様にとって、それは特別な商品ではありませんでした。幼少期から尼門跡寺院 で育った和尚様にとって、料理は日常の一部であり、祈りと暮らしの中にあるものです。 そのた め、紹介で来院する文人や政治家に料理を振る舞うことはあっても、それに明確な料金を定め、 一般に開くという考えはありませんでした。
この考えを転換させたのが、星野香栄御住職でした。 三光院は檀家を持たず、葬儀や戒名、墓 地を中心とする寺院運営とは無縁の尼寺になります。寺を維持するには、三光院ならではの文 化を柱にしなければなりません。星野香栄御住職は、米田祖栄和尚様が普通のお料理だと思っ ていたものこそ、実は三光院の最大の文化的価値であると見抜いたのです。
比丘尼御所において皇女出身の尼宮様に召し上がっていただくために紡がれてきた竹之御所流 の精進料理は、質素を旨とする僧堂の精進料理とは異なります。そこには、雅やかさ、季節感、 祈り、もてなし、に加えて一種の贅沢さまで許容された女性たちの暮らしの知恵が込められてい ます。お姫様の精進料理、などと報じられることもありますが、実際には元皇女の尼宮様に召し 上がっていただくために、無名の女官であり無名の尼さんたちが作り紡いできたものになります。
星野香栄御住職は、米田祖栄和尚様を説き伏せ、三光院の精進料理を一般に開き、御浄財を いただく道筋を作りました。この決断に資金を出して支えたのが、室谷秀中将夫人でした。 室谷 秀中将夫人を通じて、著名な文化人たちも三光院の贔屓に加わり、やがて三光院の精進料理は マスメディアにも取り上げられるようになりました。
昭和55年(1980)、米田祖栄和尚様は初めて著作を発刊しました。この著作によって、六百八十 年継承されてきたとされる竹之御所流精進料理の献立が初めて活字化されました。その後、米 田祖栄和尚様の竹之御所流精進料理本は、国内外を問わず数多く出版されるようになりまし た。
尼寺三光院を冠した書籍も数多く出版されました。特に、米田祖栄和尚様と星野香栄御住職の 連名で著された英字本は、改題を重ねながら重版され、さらにペーパーバックとしても発売されま した。世界で最も広く読まれた精進料理の書籍の一つとも言われています。
三光院の御所流精進料理は、単なる食事提供ではありません。 それは、三光院が檀家寺になら ず、比丘尼御所文化を守りながら生きていくための中心になったのです。
第十三章 紫紺の会・茶道・煎茶道・香道
三光院の文化は、料理だけにとどまりません。
昭和38年(1963)、星野喜久子三光院幼稚園園長を会長とする「紫紺の会」が発足しました。こ れは、米田祖栄和尚様と谷崎潤一郎夫人・松子氏との交流から生まれた和歌の会でした。米田 祖栄和尚様と松子氏が、星野喜久子会長の下に入り、会を盛り立てる形で活動が始まりました。
和歌は、比丘尼御所文化において重要な位置を持ちます。祈り、季節、暮らし、心の動きを言葉 に結ぶ和歌は、尼門跡寺院の文化と深く結びついていました。紫紺の会は、三光院が和歌の文 化を継承し、共有する場として機能しました。
また、西野奈良江氏の疎開居宅であった書院は、香道もできる書院造の茶室「留香閣」として改 築されました。香を聞き、茶をいただき、和歌を詠む。三光院には、比丘尼御所由来の総合的な 和文化が息づいていました。
三光院の役員にも名を連ねていた曇華院の西尾孝安氏、狩野孝旻氏は、月に一度上京され、そ れぞれ茶道と煎茶道の御講を受け持ちました。茶道は表千家、煎茶道は売茶竹延流でした。
これらは単なる習い事ではありません。
茶、煎茶、香、和歌、料理は、三光院において別々の文化活動ではなく、年間を通じて継承され ている数多あるお祀り、行事と重なりながら、祈りと暮らしの一部として結び合っているのです。
第十四章 尼門跡文化の支援と復興
星野香栄御住職は、三光院だけを守った方ではありません。 三光院の竹之御所流精進料理の 隆盛によって得た力を、他の尼門跡寺院の支援にも注がれました。
戦後、尼門跡寺院の多くは、支援基盤の喪失により厳しい状況に置かれていました。その状況 から中々抜け出せない寺院も少なくありませんでした。そうした中で、手が回らなくなった境内の
普請、途絶えてしまった行事や文化、寺から離れた各道の師匠たちとの関係など、多くの課題が ありました。
星野香栄御住職は、各尼門跡寺院が本来の伝統を継承できるように、専門家や寺院を離れた師 匠たちを招き、途絶えていた文化の復活をも主導していきました。時にはホテルを借り切り、関係 者を集めて文化継承の場を設けたほどです。
また、尼門跡の作品を世に出すため、写真集、写真展、レコード発売などにも資金援助を惜しみ ませんでした。比丘尼御所の始まりともいうべき通玄寺の歴史をまとめた『通玄寺史』現代語訳 も、実際の執筆は星野香栄御住職が担いました。
こうした積み重ねにより、星野香栄御住職は、各尼門跡寺院から確かな信用を得ていきました。
その信用があったからこそ実現した大きな事業が、平成10年(1998)、尼門跡寺院を代表する九 人の尼僧がニューヨークへ向かった一大行事でした。
この行事は、コロンビア大学のバーバラ・ルーシュ教授が、日本最初の女性禅師である無外如大 の七百年遠忌として、ニューヨークのカトリック教会で発願したものでした。当初は、江戸幕府が 定めた比丘尼御所寺格第一位の大聖寺に話が持ち込まれました。しかし、尼門跡寺院の調整、 渡航費用など、現実的な課題が大きく、話はなかなか具体化しませんでした。
各尼門跡の出欠調整は、星野香栄御住職にとって難しいことではありませんでした。それまでの 長年の支援と交流により、厚い信頼関係が築かれていたからです。問題は渡航費用でした。尼 僧だけでも十二名(テレビ放映では九名とされました)、お付きの方々を含めれば大規模な渡航 となります。
そこで現実化に向けて力を発揮したのが、西井香春先生でした。 平成6年(1994)から三光院で 星野香栄御住職に師事していた西井香春先生は、フランス料理の専門家としての活動を継続し ており、また従姉妹である女優・岸恵子氏のマネジメントにも関わっていたことから、広くマスメ ディアとの関係を持っていました。
西井香春先生は、星野香栄御住職にテレビマンユニオンの重延浩社長をつなぎました。 「これは 貴方にしかできない仕事ですよ」 星野香栄御住職のこの一言により、無外如大七百年遠忌に関 する渡航費用は、テレビ局側の経費として扱われることとなり、一般にはほとんど知られていな かった尼門跡寺院の世界が、地上波の番組として紹介されることになりました。
平成12年(2000)、毎日放送製作「京都尼門跡」はTBS系列で全国放映されました。 その背後には、星野香栄御住職の人脈と信用、西井香春先生の調整力、そして三光院が長年
にわたって尼門跡文化を支えてきた歩みがあったのです。
第十五章 国際精進料理研究会と新しい試み
星野香栄御住職様は、古き良き伝統の継承や復興に尽力する一方で、新しい試みにも極めて積 極的でした。昭和60年(1985)、国連大学や心臓血管研究所関係者と協働する形で、「国際精進 料理研究会」が発足。国連大学の「伝統食品技術の近代化プロジェクト」に参加し、日本の近代 化された豆腐技術をインドの乳製品加工に移転させた「インド乳腐」、すなわちインド豆腐という 構想に強い関心を寄せました。
これを契機として、星野香栄御住職様は「新精進料理」を考案されました。そこでは、乳製品だけ でなく、卵、ニンニク、スパイスなども用いられました。これは一般に精進料理と聞いて連想される 枠を大きく超える大胆な試みでした。三光院では、この新しい精進料理を欧米十二か国の方々に 披露するイベントも開催。また、国際基督教大学など複数の大学で、定期的な精進料理講座を 受け持つなど、国や宗教にこだわらない活動も続けられました。
もちろん、これらの試みは三光院の本流を変えるものではありません。三光院の中心にあるの は、あくまでも曇華院・比丘尼御所文化に由来する行事であり、それに連なる竹之御所流精進料 理です。しかし、星野香栄御住職様は、伝統を守ることと新しい挑戦をすることを、決して矛盾す るものとは考えておられませんでした。
「文化は自分たちが楽しまなければ、続いていかない」星野香栄御住職様が残した言葉です。
これは、三光院の精神文化をよく表しています。伝統とは、形だけを保存することではありませ ん。本幹をぶれさせず、その時々の条件と向き合い、楽しみながら、変化させながらも続けていく こと。それが、星野香栄御住職様の歩まれた、三光院における文化継承の真の姿勢でした。
第十六章 西井香春先生と御所流精進料理の継承
三光院の竹之御所流精進料理を現在に伝える中心的存在が、西井香春先生です。
西井香春先生は、十六歳でフランスに渡り、一般的には西洋料理という言葉しかなかった時代か ら、日本国内においてフランス料理の普及に尽力した料理研究家でした。フランス家庭料理の専 門家・西井郁として、NHKを初めとする各種メディアでも活躍されていたのです。 その西井郁氏 が、星野香栄御住職様との出会いを機に、三光院の精進料理へと深く関わるようになりました。
平成6年(1994)、西井郁氏は星野香栄御住職様から「香」の字を授かり、西井香春となりました。 これは、単なる改名ではありません。三光院の文化を担う者として、星野香栄御住職様から継承 を受けたことを意味しているのです。 西井香春先生は、御所流精進料理を単なる調理技術とし て受け取ったのではありません。食を通じて祈り、作務を通じて場を清め、来院者をもてなすとい う、三光院の精神文化そのものとして受け継がれました。
星野香栄御住職様と同様に僧籍を得るべく、西井香春先生は平林寺に赴かれました。しかし、そ こで一つの問題が生じました。
平林寺は禅寺であり、修行には坐禅が必須となるからです。しかし、西井香春先生は十代の頃 から膝が悪く、正座さえ困難であったのです。 この相談を受けた糸原圓応老師は、西井香春先 生に尋ねられました。
「貴女は普段、何をして暮らしているのかい」
西井香春先生は、普段は三光院で料理を作り、境内の清掃などをしていると答えられました。 こ れを聞いた糸原圓応老師は、料理を一生懸命作ることは立派な食禅であり、境内を一生懸命清 掃することは立派な作務禅である、座る坐禅だけが禅ではない、そのまま三光院で修行を続けな さい、という趣旨の言葉を示されました。
この言葉は、三光院の方向性を決定づけるものでした。 三光院において、禅は坐ることだけでは ありません。 食を調えること、場を清めること、来院者をもてなすこと、日々の作務を重ねることも また禅であるのです。 以来、西井香春先生は三十年以上にわたり、作務衣を身にまとい、三光 院で御所流精進料理、食禅、作務禅を実践し続けておられます。
第十七章 三光院サロンと寺子屋三光院
平成21年(2009)、星野香栄御住職様は右足を骨折され、要介護生活に入ることとなりました。 比丘尼御所の流れを汲む尼寺として、星野香栄御住職様は生涯未婚を貫かれ、その生涯を三 光院の護持に捧げられました。頼れる親族は一切おられませんでした。
そのような状況下で、三光院の実際の運営、竹之御所流精進料理、そして文化活動の継承は、 星野香栄御住職様から厚い信頼を得ていた西井香春先生が大きく担う形となっていったのです。 その後、西井香春先生は法的な面においても星野香栄御住職様の養女となり、本名を星野郁子 とされました。これは、法的な継承を超えた、精神的・文化的な母娘としての絆の深まりを示す出 来事でした。
西井香春先生は、御所流精進料理を継承し、さらにその価値を現代へ発展させただけではあり ません。御開基である西野奈良江氏が抱いていた「女性が和文化を含めた教養を身につける 場」という遺志を受け継ぐ形で、「三光院サロン」を立ち上げました。
三光院サロンは、三光院を単なる閉ざされた寺院ではなく、公共的な文化財産として捉え直す試 みでした。分かりやすく言えば、家業仏教のお寺ではなく「みんなのお寺」ということです。各種文 化活動団体、芸術家、そして一般の方々に広く施設を開くことで、かつての比丘尼御所が果たし ていた教養と文化の交差点としての役割を、広く開く形で現代に復活させたのです。
寺院運営は、御所流精進料理から得られる御浄財と、西井香春先生の私財投入によって支えら れていました。それゆえに、三光院を学びと文化活動の場として無償開放するという贅沢な決断 が可能となったのです。ジャンルを問わず多様な人々が訪れる学習拠点として、かつての寺院の 姿に倣った「寺子屋三光院」ともいうべき存在が、着実に形成されていきました。
三光院には、古くからの檀家が存在しません。だからこそ、特定の宗派や信仰の垣根を越え、 食、祈り、文化、作務を通じて、縁ある多くの人々が集う場となりました。三光院の寺院規則には 「檀家」も「総代」も記されていません。記されているのは業界的にも耳馴染みのない「祖信徒」と いう言葉だけです。三光院における「祖信徒」とは、血縁や制度という既存の枠組みを越え、この 場所に巡り会って価値観を共有できる全ての方を指す言葉になります。
ここでいう「祖」は、過去からのしがらみではなく、寺院の歴史の中で守り継いできた精神の連鎖 そのものです。偶然この場所に辿り着き、現在という一瞬を共に過ごすその縁は、過去から未来 へ続く尊い系譜の一点として、そのまま肯定されます。訪れる方は単なる来訪者ではありませ ん。三光院という長い時間の層を共に生き、その歴史的・文化的な空気を共有する者として、縁 を結ばれたすべての方を「祖信徒」とお呼びします。
それは御所流精進料理をいただき、その精神に触れる人。 茶や香、和歌といった日本の伝統文化に親しむ人。 境内の掃除や作務を通じて、静かに三光院と関わる人。 開かれた文化活動の場として、知的な刺激を求めて訪れる人。
それぞれの形で三光院と深く結ばれる人々が、現在も確実に増えてきています。この開かれた 姿勢は、西井香春先生が御開基の精神を現代に昇華した証左でもあります。祈りの寺であり、食 の寺であり、学びの寺であり、そして作務禅の寺である三光院。西野奈良江、飛鳥井慈孝、米田 祖栄、星野香栄、西井香春が築き続けて、そして次世代へ繋いでいこうとする、唯一無二の環境 となっているのです。
第十八章 曇華院への回帰構想
星野香栄御住職様は、晩年、三光院を本来の歴史的流れへと戻すことを強く考えておられまし た。三光院は、開山の経緯をひもとけば、曇華院との深い関わりの中で生まれた尼寺です。飛鳥 井慈孝御前様の後見や、米田祖栄和尚様の初代住職就任、さらには曇華院と三光院の役員構 成の重なり、行事、作法、精進料理に至るまで、三光院の文化的根幹は曇華院・比丘尼御所に ありました。制度上は国泰寺派との包括関係を持っておられましたが、それは寺院規則制定時 の歴史的経緯によるものであり、実際の文化継承の本流とは必ずしも一致していなかったので す。
星野香栄御住職様は、三光院を臨済宗単立寺院として位置付け直すこと、あるいはさらに根本 へ立ち返り、曇華院のもとへ戻すことを構想されていました。すぐに実行へ移さなかった理由に は、情の問題もあったと伝えられています。全生庵の先代とは同時期に修行を積んだ間柄であ り、深い友人関係にありました。そのため、亡くなってすぐに単立化してしまっては、次の若い世 代が可哀想であるという細やかなお心遣いがあったのです。
しかし、三光院を本来の流れに戻すという決意は、時とともに固まっていきました。令和元年( 2019)、星野香栄三光院住職様と、曇華院の狩野孝旻尼門跡様との間で、両法人の合併契約が 締結されました。
三光院を曇華院の末寺とする案もありましたが、最終的には法人としては曇華院のみを存続さ せ、両院を吸収合併させる方向が選ばれました。これは、三光院を曇華院・尼門跡寺院のもとへ 戻すという、歴史的に極めて重要な決断でした。三光院は昭和9年に小金井に開かれた寺院で すが、その魂は曇華院に連なる比丘尼御所文化にありました。令和元年の合併契約は、その本 質を制度上も回復しようとする試みだったのです。
しかし、この構想は実現に至りませんでした。令和2年(2020)、星野香栄御住職様は三光院の 自室にて、西井香春先生をはじめ、三光院役員、祖信徒代表が見守る中で息を引き取られまし た。前後して、曇華院の狩野孝旻尼門跡様も遷化されました。さらに、世界を覆ったコロナ禍によ り、宗教行事、文化活動、人的交流は大きく制限され、尼寺を維持すること自体が危機的な状況 となりました。三光院を曇華院へ戻すという構想は、志半ばで止まることとなったのです。
第十九章 令和二年以後の暫定対応
星野香栄御住職様が遷化された後、三光院は住職不在という重大な問題に直面しました。国泰 寺派の宗派規則では、住職不在の場合、法類、すなわち兄弟寺が管理することとされています。 しかし、国泰寺派には三光院以外に尼寺がありません。このままでは、三光院が男僧寺の管理 の下に置かれる可能性がありました。三光院は、比丘尼御所文化を受け継ぐ尼寺です。その三 光院が、尼寺としての性格を失うことは、三光院の根幹に関わる問題でした。
そこで、香麗氏が大学院を卒業し、僧籍を取得するまでの間、三光院の住職を務めてくれる尼僧 を探すことになりました。この過程で、精進料理教室の生徒の紹介を通じて三光院に来ることに なったのが、小泉倖祥氏であったのです。
ただし、小泉倖祥氏を代表に迎えることには不安もありました。三光院の文化を知らない人物で あり、三光院の竹之御所流精進料理、比丘尼御所文化、食禅・作務禅、三光院サロンの成り立 ちを深く理解していたわけではなかったからです。そのため、西井香春先生および三光院の役員 三名、香麗氏を含む関係者は、小泉倖祥氏との間で、住職就任にあたっての覚書を交わしまし た。
この覚書の要点は、三光院の運営は従前どおり西井香春先生を含めた役員が行うこと、次の住 職が決定するまでの間だけ小泉倖祥氏には報酬を支払って住職の地位に就いてもらうこと、次 の住職が決まった場合には退任してもらうこと、また小泉倖祥氏は月に一回の坐禅会を本堂で 行うことができる、という内容でした。令和2年(2020)、弁護士が文書を確認した上で、双方が署 名押印し、この覚書は締結されました。
この覚書は、三光院の文化を守るための暫定的な対応であったのです。それは、三光院の運営 を従前どおり維持しながら、次代への継承までの時間を確保するためのものでした。
第二十章 現在の課題
三光院は今、深刻な危機に瀕しています。
令和2年の住職就任に関する覚書において、三光院の運営は西井香春先生および役員が従前 どおり担うこと、そしてその住職就任が次の継承者決定までの暫定的な措置であることは明確に 確認されていました。
しかし、その後の運営を巡っては覚書の解釈や履行を巡る齟齬が生じ、寺院規則変更の停滞、 単立化構想の頓挫、法人実印の変更、役員構成の不透明な刷新、保健所への精進料理廃業届 の提出、さらには西井香春先生への退去要求といった事態が相次ぎ、深刻な対立と混乱を招い ています。
そして何より重要なのは、現在の問題を単なる寺院内部の権力争いや人間関係の紛争として矮 小化しないことです。今、三光院で問われているのは、誰が法人を支配するかという次元の問題 をはるかに超えた、尼寺としてのアイデンティティそのものの存続です。
通玄寺から始まり曇華院に端を発する比丘尼御所文化は、このまま途絶えてしまうのか?
竹之御所流精進料理という稀有な技法が、恒常的に提供される場所で継承でき続けるのか?
西井香春先生が守り抜いた食禅・作務禅の精神は失われてしまうのか?
作務禅修行を重ねてきた女性たち、三光院の食と共に生きようと覚悟していた女性たちの生活 の場は、居場所は、行き場はどうなるのか?
「寺子屋」として地域に開かれ、茶・香・和歌を通じて豊かな教養を育んできた聖域は、閉ざされ てしまうのか?
既に一部、小泉倖祥氏によって閉ざされた弱者の居場所としての三光院の機能が、再び復活す ることはあり得るのか?
三光院の危機は、一寺院の問題にとどまりません。それは、女性たちが守り継いできた祈りと文 化の灯火を、未来へ手渡すことができるかという、歴史的岐路そのものなのです。
第二十一章 三光院の三本柱
現在の三光院を理解する上で、その根幹をなす三つの柱を明確にしておかねばなりません。
第一は、比丘尼御所由来の行事と祈りです。三光院は、一般的な檀家寺とは異なる性格を持つ 尼寺であり、神仏や皇室を等しくお祀りし、年中行事と祈りの日々を大切にしてきました。そこに は、曇華院・比丘尼御所文化に連なる独自の寺風が脈々と流れています。
第二は、日本唯一の竹之御所流精進料理です。三光院の精進料理は、単なる野菜料理でも、観 光向けの食事でもありません。米田祖栄和尚様が曇華院より伝え、星野香栄御住職様が一般に 開放し、西井香春先生が継承・発展させてきた、三光院の信仰と文化そのものの核心です。三光 院において食とは、祈りであり、修行であり、もてなしであり、文化に他なりません。
第三は、寺子屋的文化活動です。三光院は、茶、香、和歌、音楽、講座、作務、食を通じて、多く の人々が集う場です。檀家を持たないからこそ、国内外から垣根なく人々が訪れ、その中から自 分の居場所として機能させられる、許容力のある学びの場であり、道を教える機会を確保でき る、教えての場でもあります。
この三本柱が失われれば、三光院は三光院であることをやめてしまいます。建物や法人名が形 として残ったとしても、比丘尼御所文化、御所流精進料理、食禅・作務禅、そして寺子屋的な文化 活動が失われてしまえば、三光院の精神はそこで断たれてしまうのです。
第二十二章 食禅と作務禅
三光院を語るうえで「食禅」と「作務禅」は欠かせません。形式禅とは趣の異なる形を持たない禅 の姿勢になります。
米田祖栄和尚様は、食を単なる栄養摂取とは考えませんでした。食禅とは、作る、食べるだけの 範囲に止まらない。生産や後処理、その背景や季節を感じ、歴史を知るまでが食だとされまし た。一方で、一般の方には分かりやすい料理という形だけを取り出して体験していただいている が、それだけでも十分に価値があるとされました。
多くのレシピ本を発売されながら、自身ではレシピを記さなかったのは、同じ野菜とはいえ水分量 も糖度も異なる。それを同じ分量の調味料を加えたところで美味しくなるはずがない、との信念に よるものでした。食は、祈りであり、もてなしであり、学びであり、生きることそのものであったので す。星野香栄御住職様は、その精神を三光院の中心に据え、禅僧としての生涯のテーマとして 「食」を見つめ続けられました。
三光院の精進料理は、美味しい野菜料理とは一線を画します。美味しければよい、見た目が華 やかであればよい、あるいは健康に良ければよいという、世俗的な価値観やグルメとしての評価 とは無縁です。形式だけ見ても、特徴だけ見ても、修行飯由来の精進料理とは明確かつ表面的 な差異も多いのですが、一番の違いはその本質にあります。
そこには、食材への深い敬意、季節への鋭い感受性、もてなしの心、祈り、修行、そして比丘尼 御所文化の雅が重なっています。したがって、分かりやすさという観点からは付けていますが、
定価、料金とは根本的には無縁なので御浄財なのです。飲食業としての告知ルールとして、建前 上はキャンセルポリシーなども掲げておりますが、実際のところは本当に迷惑なのですが、当日 にキャンセルされたとしても、その集金催促などはしたことはありません。なぜなら三光院は飲食 業、レストランではなく、お寺であるからです。そして禅寺で食事を提供する以上、その対価はあく まで御香資となるからです。要はもてなしを受けた側がその価値を決めるのであって、商品提供 をしているわけではないのです。
作務禅の祖とも言われる禅宗の第六祖慧能は、料理の下働きをしている最中に六祖に指名され ました。読経しているのが、坐禅しているのが、衣を着て剃髪しているのが、偉いことではない。 生きるために必要不可欠な食、料理をすること、それも他人のために料理の下働きをすること が、尊いことだとして六祖に指名されたわけです。
三光院における作務禅とは、境内を清め、場を整え、人を迎えるという修行です。同時に日常生 活の全てでもあります。社交や経済活動も含めての作務禅。これは例え師匠といえども正解を教 えることが出来ない、するべきではないという思考姿勢でもあります。本来無一物、何もない、で はなく、それぞれの形しかない。三光院の禅は、形を誇る禅ではありません。日々の暮らしの深 淵にある禅です。食を通じて人を生かし、作務を通じて場を清め、己を磨く。この食禅・作務禅こ そ、三光院が現代へ伝えてきた、何にも代えがたい大切な精神文化なのです。
第二十三章 香の字の継承
三光院の歴史には、「香」の字を受け継ぐという、精神的な血脈の継承があります。
星野香栄御住職様は、米田祖栄和尚様より「栄」の字を授かり、尼僧としての道を歩まれました。 その得度式は曇華院にて厳粛に執り行われ、紫の着物から黒の衣へと替え、剃髪の儀も曇華院 にて行われました。飛鳥井慈孝御前様が見守るなか、師である米田祖栄和尚様から字を授かったことは、星野香栄御住職様にとって仏門における唯一無二の師資関係であり、三光院の正統性を語るうえで極めて重要な点です。
平成6年(1994)、西井郁氏は星野香栄御住職様より「香の字」を授かり、西井香春となりました。 これは、三光院が守り抜いてきた御所流精進料理と、その精神文化を継承する者であるという証に他なりません。
さらに、星野香栄御住職様から「香の字」を授かった最後の女性として、香麗氏が挙げられます。 香麗氏は小金井で育ち、三光院の竹之御所流精進料理に深く魅了されたことをきっかけに、西井香春先生の下で精進料理修行を始めました。この縁により、星野香栄御住職様の最後の弟子となったのです。香麗氏は当時、三光院に居住し修行を積む傍ら、大学院生として博士課程を修了するために学業を優先すべき時期にありました。
星野香栄御住職様が、三光院を曇華院へ戻すという根本的な決断に至った背景には、次代への 継承を見据え、三光院を本来あるべき歴史の流れの中に位置付け直すという強い意志がありま した。
星野香栄御住職様からの「香」の字の継承は、単なる名前の譲り受けではありません。それは、三光院の食、祈り、作務、そして尼寺としての生き方そのものを継ぎ、未来へと繋いでいくという、重い誓いを含んでいました。
一方で現在、西井香春先生から「香の字」を授かった女性は数多くいます。まずは三光院で生きていくことを選んだ女性たち。蓮見香淳を始め、尼僧となることを希望する女性が複数人いるのが三光院の強いところになります。また、尼僧ではなくても、三光院で生きていきたいと料理に関わる女性も複数人います。
ついでその場限りの御修行体験者の存在。三光院では星野香栄御住職様が始められた『禅と精 進料理教室』という一日御修行体験会が毎月あります。その際には、一日限りとはいえ弟子入りするわけですから、現在では西井香春先生から『香の字』をいただくことになります。もちろんこれは、お遊びの面も多分にあります。修行の本質ではない表面形式の部分もありますから、主体的でもなく、二度とその名前を使わない人も少なくありません。
しかし見逃せないのが、この御修行や作務禅参加を機会にして、三光院でも、生きていくことを選んだ女性たちが増えていることです。要は自分の居場所はもう持っている上で、三光院でも、の生き方になります。彼女たちは自分で職をしっかりと持っていることが大半です。生活していくことだけを考えれば、三光院と関与する必要がない女性たちです。そうした女性が、月に一回、月に二回、多い方だと週に二回、定期的なのに全くの無報酬で三光院で作務を継続しているのです。
要は宗教行為、利他活動を職業にしたり、そこで対価を得ることをする必要がないのです。実はこれは西井香春先生も同様です。30年に及ぶ三光院での生活において、三光院から金銭的報酬を一切受けていません。もちろん西井香春先生のように全てを捧げることは難しいです。現実的には不可能でしょう。しかし、月に一回、二回、なら、三光院を通して利他活動にその日を捧げてみるというのは、現実的な選択肢になっています。
香の字とは無縁ですが、三光院の精進料理は多くの女性給仕者によって支えられています。星野香栄御住職様の時代は専業主婦の方々が多くいましたし、現在は西井香春先生の生徒出身の方が多いです。彼女たちの報酬や、寺院の普請や、行事を継承していくのに必要な経費は、お料理のお浄財だけで十分に賄っていけるのです。要は宗教家であること、寺院で生きていくことで、金銭を必要とする人間は必ずしも必要ないことの証左とも言えるでしょう。
実は現在の三光院の問題もここにあります。外部の方をわざわざ巻き込んで主張する際に、三光院の経済的な基盤、運営の将来性、安定性などを持ち出されることが増えました。住職イコー ル経営者が変われば運営方針も変わるのが当たり前だ、との理論です。これまでの三光院の歴史にはなかった墓地経営、葬儀葬祭、果ては土地を活用した各種の事業や物販などの計画です。しかしそれらの収益をあげることは、一体、何のために、もっといえば誰のために使わなくてはいけないのでしょうか?
お布施は本来、布を表しています。禅祖達磨が着ていた衣、この布を後継者たちは継いで行きました。本来、出家者に金品は必要なかったのです。
他の寺院の例を持ち出されることもありますが、あくまで三光院は三光院なのです。賽銭箱もない、御朱印もない、一般の方の墓地もない、一般の方の葬儀葬祭もしない、販売するお守りもない、そんな尼寺です。過去の歴史になかった収益活動を新しく始めることなど、三光院には必要ありません。
第二十四章 三光院を守るということ
三光院を守るとは、何を守ることなのか。土地、建物、宗教法人。これらを守ることはもちろん重要です。しかし、それだけでは足りません。三光院を守るとは、三光院が三光院であるための精神と文化そのものを守ることです。
西野奈良江御開基が抱いた、女性が和文化を学び、祈りとともに生きる場をつくりたいという志。 飛鳥井慈孝御前様の後見により、曇華院の流れを受けた尼寺としての成り立ち。米田祖栄和尚様が曇華院から伝えた行事、作法、茶、香、料理、もてなし。星野香栄御住職様が一般に開いた御所流精進料理、尼門跡文化支援、文化人サロン、幼稚園、紫紺の会、そして国際的な活動。 西井香春先生が三十年以上にわたって実践してきた食禅・作務禅、御所流精進料理、三光院サロン。そして、三光院で生き、修行し、作務を続けてきた女性たちの存在。これらすべてがあっ て、三光院は三光院なのです。
現在の問題を、単なる役職や権限の争いとして見てはなりません。三光院の問題は、文化の継承が断たれるかどうかの問題です。食が断たれるかどうかの問題であり、尼寺としての場が失われるかどうかの問題であり、女性たちによって守られてきた祈りと文化の場が、未来へ渡されるかどうかの問題なのです。
三光院が守ってきた文化は、一度途絶えれば容易には戻りません。料理の献立は本に残せるかもしれません。しかし、食禅として料理を作る心、作務禅として場を清める身体、茶や香や和歌が日々の中で自然に結ばれる感覚、来院者を迎える三光院の空気は、紙の上だけでは継承できないのです。
文化は、人が生きている場でしか続きません。三光院を守るとは、その場を守ることなのです。
第二十五章 結び
三光院は、昭和9年に開かれた比較的新しい寺です。しかし、その中には京都曇華院に連なる数百年の比丘尼御所文化が宿っています。西野奈良江氏の志によって開かれ、飛鳥井慈孝御前様の後見を受け、米田祖栄和尚様によって尼寺として確立され、星野香栄御住職様によって御所流精進料理の尼寺として広く知られるようになり、西井香春先生によって食禅・作務禅として現在に伝えられてきました。
三光院の歴史は、女性たちによる祈りと文化継承の歴史です。檀家寺にならず、葬斎の巷に降りることなく、比丘尼御所の気風を守り、食を中心に人を迎え、茶、香、和歌、作務、学びの場として開かれてきた。それが三光院です。
現在、三光院は大きな岐路に立っています。このままでは、三光院の御所流精進料理、食禅、作務禅、尼寺としてのあり方、文化活動、そして曇華院に連なる比丘尼御所文化の継承が危うくなる可能性があります。だからこそ、三光院の歴史を正しく記し、三光院が何を受け継いできた寺なのかを明らかにしなければなりません。
三光院を未来へ継ぐために必要なのは、まず、三光院の本質を正しく知ることです。三光院はどのような願いから生まれ、何を受け継ぎ、何を守り続けてきたのか。いま何が失われようとしているのか。そして、何を次代へ渡さなければならないのか。その問いに答えるために、本寺誌は記されます。
三光院は、土地建物だけの名ではありません。祈りであり、食であり、作務であり、茶であり、香であり、和歌であり、女性たちによって守られてきた文化の場そのものです。この歴史と精神を正しく伝え、次代へ継承すること。それこそが、今、三光院にとって最も重要な課題なのです。




