作務禅と食禅食悟
座ってするのが座禅です。立ってするのが立禅です。歩きながらするのが歩行禅です。寝ながらするのが寝禅です。いわゆる形式四禅と呼ばれるこれらの禅に共通しているのは、形を決めて、特定の時間を設けて禅と向き合うことです。
星野香栄御住職様も、精進料理教室の際には、必ず線香一本分の形式禅の時間を設けていました。一方で、三光院でより重要視しているのが、作務禅(食禅含む)です。
一般用語として「訳がわからない会話」のことを禅問答と表現したりします。実際の禅宗の世界ではこの考案を通して修行に励むことも多いのですが、訳がわからないどころか答えが決まっているのが実情だったりします。
例えば一番有名な考案『隻手音声』。両手をバチンと鳴らして「どっちが鳴ったか?」と師匠が弟子に問いかけます。この問いには答えがあります。
形式禅の世界では、師匠が絶対です。師匠が正解を知っており、弟子は試行錯誤しながらも師匠と同じ答えを導き出すことを目指します。
一方で作務禅の世界では、誰にとっても共通の正解、なんてものはそもそも存在しないことが大前提となります。従って師匠は弟子と一緒に考えることは出来ても、正解を教えることは出来ないのです。
作務禅の成立は禅宗の開祖達磨から下って、六代目慧能の悟りが開かれた時を出発点とすると言われています。六祖慧能は文盲だっただけでなく、悟りを認められた時点ではお坊さんでさえありませんでした。それどころか食事係だった慧能は、稲から米糠を取り除くために米搗き場で足踏みしている最中に伝法を認められたのです。
禅宗に限らず、大体の宗教では絶対の正解や答えが用意されています。特定の正解以外は許さないとされる場面も多いのが実情です。民衆の側もまた、用意された正解を知りたがり、聞きたがります。答えが用意されているという状況は、安心感を与えてくれるからです。
一方で作務禅(食禅含む)の世界は、一人一人正解が異なることが前提になります。だから説明が難しく、理解は更に困難になります。一定の判断基準があるとすれば、自分が導き出した結果行動に対して、死ぬ間際に至っても後悔していないかどうか、となります。
例えば怒りについて。大抵の宗教ではまず道徳的な見地により、まず怒りを悪と考え、どのようにして怒りを抑えるかを解きます。これは学術の世界でも同様で、技術論として怒りのコントロールを教えます。例えば「まず6秒我慢してみましょう」などです。
一方で作務禅の世界では、怒っても良い、のです。もちろん、怒らなくても良い。そしてその決断をする際に、師匠と呼ばれる人間の影響を受けても良い。が、同時に影響を受けなくても良い、のです。師匠に限らず、それは家族、友人、文献、何に影響されても良いし、同時に影響されなくても良い。全ては言い訳の効かない自己決定が基準となります。
仏教の悟りは、文字で伝達することは出来ない。言葉でも伝達することが出来ない。と言われています。作務禅の真理も同様です。興味を持たれましたら、どうか三光院に体験しにきてください。
しかし一つだけ肝に銘じていただきたいことがあります。作務禅には絶対の答えがありません。体験は出来ても、正解を教えることが出来ませんので、あしからず。