三光院の歴史

       

尼門跡寺院とは?

作務禅と食禅食悟

竹之御所流精進料理の継承

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三光院の歴史

継承している料理の歴史は古いのですが、三光院は比較的新しいお寺です。開山は昭和9年。

御開基さん(西野奈良江)は、東京開成館(中学生向け教科書を主業とする出版社)の女性社長でした。婦女子教育に熱心な方で、女性が和文化を含めた教育を受けられる場を作りたいとの想いで三光院は建立されました。

山岡鉄舟の信奉者でもあった御開基さんは、山岡鉄舟の子孫の方々が所有していた土地(現在の三光院の場所)を購入。開山当時は七千坪を超える広大な敷地がありました。

尼寺らしい庵の建立を望んでいた御開基さんですが、資金を出しても出しても中々完成の報が届きません。山岡鉄舟縁の寺院として知られる男僧寺院に建築の差配を依頼していたのですが、仕事も忙しくて現地に足を運ぶ暇さえ取れなかったそうです。また、完成を待って足を運ぶつもりでもいたようです。しかし待てど暮らせどの状態が続き、遂に痺れを切らして来てみると、想像を超える大きな本堂が建立されていたのです。

問題はそれだけではありません。何と某有名老師が既に居住までしていたのでした。尼寺の庵を建立するつもりが、大きな本堂と男僧老師の居住。差配の寺院に苦情を述べても「こんな立派な老師に隠居寺として使ってもらえるのだから有難いことでしょう」と逆に誇りに思いなさいと諭される始末。

困り果てた御開基さんが頼ったのが、方広寺の間宮英宗老師でした。「小金井に建立したお寺には、立派な尼住職を迎えたいのです」と訴えたのです。そこで間宮老師が仲介の労をとってくださりご縁が出来たのが、京都嵯峨野の尼門跡寺院(旧比丘尼御所)である曇華院でした。

御開基さんは曇華院の尼門跡である御前様(飛鳥井慈孝)に「どうか三光院の住職になってください」と懇願。しかし当時の価値観では東京の寺院に移り住むなどは「東に下る」ことになってしまいます。周囲も許してはくれません。

そこで三光院を御前様(ごぜんさま)の「御別院」と位置付け、御前様自身は三光院の初代責任役員に就任。三光院の初代住職には、次期尼門跡候補筆頭であった和尚様(米田祖栄)が就くことになりました。臨済宗単立寺院である曇華院と、三光院は、責任役員の名簿では全く一緒の構成になったのです。

とはいえ、三光院の運営にもお金はかかります。戦中には御開基さんも居を三光院に移されいたようですが、支援が永続されていたわけではありません。和尚様を含めて曇華院から移ってきた尼様方は、京都から持ち込んだ着物布地などの私物を売り払いながら寺院の運営費に当てていました。

それまでも和尚様は、来院者に曇華院で習いおぼえた料理を振る舞うことが日常的にありました。それを体験したシャンソン歌手の石井好子さんが「京都になんか行かなくたって、三光院に行けば東京でも十分以上に京都を味わえる」と発表。これが転機となって三光院に食事目当ての来院者が爆増することになるのです。

しかし、幼少期より寺院生活だった和尚様には商売の才覚がありませんでした。自身が作り紡いできた料理についても、日常であって特別なものとの意識がまるでないのです。そこで人肌抜いたのが、後に三光院の二代目に就くご住職様(星野香栄)だったのです。公開されてこなかった竹之御所(曇華院)の料理を、一般に向けて初めて公開。

「普通の料理でお金なんていただけない」と言う和尚様を説き伏せて、窮乏状態だった三光院に精進料理でお浄財をいただける道筋を作ったのです。
比丘尼御所において皇女出身の姫宮住持に召し上がっていただくために紡がれてきた竹之御所流の精進料理は、質素を基本とするお坊さん由来の精進料理と異なり、伝統文化として一種の贅沢さや雅さを兼ね備えていました。著名な文化人がまず常連になり、やがてマスメディアでも取り上げられることになります。

尼寺三光院を冠した書籍も多く出版され、その注目は海外にまで波級。和尚様とご住職様(米田祖栄、星野香栄)お二人の連名で著された英字本は、四回改題された上にペーパーバックとしても発売。世界で一番売れた精進料理の書籍と言われています。

名実共に精進料理の尼寺として確固たる地位を築いた三光院で、ご住職様から香の字を引き継いで三代目料理長になったのが現在の三光院の核である先生(西井香春)です。十六歳でフランスに渡り、西洋料理という言葉しかなかった時代から日本国内においてフランス料理の普及に尽力。フランス料理の最高峰と言われるフランス家庭料理の専門家として各種メディアでも大活躍していた先生が、ご住職様との出会いを機に精進料理に転向されました。

先生は御住職様から精進料理を引き継ぎ発展させただけでなく、御開基さんの意志を引き継ぐ形で三光院サロンを立ち上げ。寺院運営は料理のお浄財と私財投入で賄えるため、寺院を公共財産として捉えた上で、各種文化活動団体や芸術家は本より、一般に向けて施設を無償解放。ジャンルを問わない文化活動拠点としての現在の三光院の地位を築き上げました。